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「ヒャンヒャン!」


遠くで聞き覚えのある犬の鳴き声が聞こえた。


頬に感じるザラザラとした生温かい感触と鼻に触れるフサフサした柔らかい何かに目を覚ます。でもしばらくの間目を瞑ったまま静かに眠ったフリをしているとだんだんそれがくすぐったくなってきて、身をよじりながら身体を横に倒しゆっくりと目を開ける。



「ヒャン!」



口から舌を出した白い生き物が顔を近付け、ペロペロとその舌で私の頬を舐めていた。



「…トト」



ぼやけた意識で目の前にあるトトの顔に手を伸ばし毛むくじゃらの顔に触れる。ほんのり湿った毛が冷んやりしていて気持ちいい。



「気が付きましたか?」



その声につられ視線を上へと上げると、そこには片膝を立てこっちを見下ろす青年が座っていた。



「ここは…?」
「墓地の地下です」



正確に言えば井戸の底ですがと付け加える彼に「井戸…?」と呟くようにぼんやりと聞き返す。まだ身体は完全に目を覚ましていないようで、寝起きようなぼーっとした感覚が残っている。


ただ"井戸"という単語が妙に引っかかり頭の中で考えているうちにハッと意識が戻り地面に両手をつき身体を起こす。


そうだ。
私、井戸から落ちたんだ。


井戸から落ちた時の記憶はあったが落ちている間の記憶が欠けていて、思い出そうとすると急にズキズキとした頭痛がはしった。着地の際に頭でも強く打ったのかと頭の後ろに手を回してみる。しかし特に血が出ているわけでもなく、身体も自分が転んでつけた両膝の擦り傷以外に目立った外傷はなかった。あんな高い所から落ちたからもしかしたらと一瞬不吉な考えが脳裏を横切ったが、興奮で少し早くなった心臓の鼓動を掌で感じホッと胸を撫で下ろす。


安堵の息を吐き、視線を辺りに巡らせてみる。
そういえばここは一体どこなんだろうか?



「………え?」



視界に飛び込んできた風景に目を疑う。


辺り一面に広がる濃い緑色の芝生の中に咲く色とりどりの花々と、ゆったりと流れる細長い小川。花の周りには蝶が舞い、宙には鳥が飛びまわり、透き通った水の中には小さな小魚が泳いでいた。



「何、これ…」



まるで御伽話にでてくるような幻想的な空間に私は言葉を失い、唖然とした表情で眼前に広がる美しい風景に目を奪われた。



「ようこそ、僕の秘密の箱庭へ」



自慢気に微笑む青年。



「ここは僕以外誰も知らない場所なので安心してください」



そう言って地面から腰を上げると傍らにいたトトを抱きかかえ手を私へと差し出す。今のこの状況に全くついていけずにいた私は目の前に差し出されたその手を無意識に取りふらついた足で芝生の上に立つ。


ここは天国なんだろうか。
天国がどんな所かは知らないが、もしここが本当にそうだとしたらやっぱり私はもう…。


もう一度胸に手を当て鼓動を確かめつつ、もう片方の手で頬を摘む。…大丈夫。私はまだ生きている。


芝生の上を歩いて行く青年の後を少し戸惑いながら(極力花を踏まないように)ついて行く。


信じられない。ここが墓地の地下、井戸の底だなんて。
地上は真冬のように寒かったのに、ここは着ている分厚いローブが鬱陶しいほど温室のように温かく空気も穏やかだった。花も生き物もここの環境によほど適しているのかとても生き生きとしていて、彼の言う"箱庭"という言葉にも自然と頷けた。



「この花、アンタが育ててるの?」
「えぇ。ここに咲いている花や植物は全部薬の材料になるんです」



青年は歩きながら足元から適当な花を1本摘むとその花を背後を歩く私へと差し出した。「お近付きの印に」なんてらしくもない台詞も添えて。


5枚の花びらが重なったライトブルーの小さな花。
男から花を貰うなんて女王と呼ばれた踊り子の私にとっては日常茶飯事で新鮮味も何も無くなってしまったが、何となくその小さな花が少し可愛く思え素直に彼の手からその花を受け取った。


貰った花の茎を持ち指でクルクル回しながら辺り一帯を眺めていると、ふと視界の端にあるものを見つけそっちへと視線を移す。



「あの木は何?」



指差しで尋ねると青年の視線もそっちへと向く。
明らかに誰かが作ったと思われる円形状の石の土台の上に青々とした葉をつけ拳ほどの赤い実を実らせた、この空間で一番異彩を放つ1本の大木。


気になって歩いていた道から外れると、土台中央に作られた階段を上まで上がり大木の前に立つ。大人1人では囲いきれないほどの太い幹と硬い石の地面を突き破って出てきた無数の根の力強さに思わず圧倒される。


でも何でこんな所にこんな大木が?
そんなことを頭の片隅で考えているとふと視線が下に向き、丁度足元の地面に埋もれるように1枚の石板が設置されていた。その場にしゃがみこみ石版にかかった砂埃を手ではらうと、そこには掠れた字で「親愛なる師へ オズの墓」と追悼の言葉が刻み込まれていた。



「オズって?」



石板をじっと見つめていると、私の後を追ってきた青年が、



「僕に魔法を教えてくれた人です」



さらっとした口調でそう教えてくれた。


特に何も考えず安易に聞いてしまったが、今の彼の発言としみじみと伝わってくる気まずい空気に一瞬黙り込み「そう…」とぼやくように返答を返す。
親愛なる師、つまり先生ということはオズもまた彼と同じ魔法使いなんだろう。その人物がどんな人だったのか少し気になったがとてもそんなことを聞けるような雰囲気でもなくなり、石板の前で目を閉じ静かに黙祷をする。



「あ、そこには墓って刻まれてますけど別にここに彼が埋まっているわけではないので気にしないでください」
「え?」



お墓じゃないの?
その言葉に思わずガクリと肩が下がる。
(人がり次に黙祷をしているというのにこの男は…)


じゃあこのお墓に見立てた大木は何かと聞こうとする前に青年は踵を返し1人先に階段を降りて行った。
ただ彼が私に背を向ける時彼の横顔が少し寂しそうに見え、でもそれ以上のことは他人の私が口を出してはいけないような気がして開いていた口を閉じ、手に持っていた花を石版の上に置いてその場を後にした。



「あそこに見えている家が僕の家です」



大木がある所から裏側にまわった先に赤い屋根の家があった。
レンガで造られたその家の屋根からは煙突が突き出ていて、そこから細長い白い煙が立ち上っていた。そして家の周りには洗濯物を干す干し場があったり、水を溜めておく樽があったり、小さな畑があったり、どこにでもあるありふれた生活感が漂っていた。
(本当にここで暮らしているんだと改めて実感する)



「どうぞ。少し散らかってますが」



家の扉の開けた瞬間、異様な匂いが鼻を刺激した。
嫌な男の匂いとかではなくハーブや薬草などの香草類の匂いで、部屋に入ると案の定部屋の至る所に薬の材料に使うと思われる乾燥した薬草らしき植物が置かれていた。火がついた大きな暖炉には大きな鉄の鍋がかかり、グツグツと謎の異臭を放ちながら何かが煮込まれていた。
いかにも魔法使いが住んでいそうな部屋の雰囲気に思わず苦笑いがでる。



「適当に寛いでいていいので少しここで待っててください」



腕に抱えていたトトを床に下ろすと青年は1人階段を上って2階へと消えていった。


その場に取り残された私はとりあえず着ていたローブと帽子を脱ぎ暖炉の前に広げ乾かしながら部屋の中をぐるりと見回してみる。
部屋の隅にある作業台らしき机の上にはビーカーやフラスコなどのガラス製の器具が置かれ、部屋の壁際には天井につきそうなほどの背の高い棚があり中にはカラフルで色鮮やかな液体が入った小瓶が綺麗に一列に並べられていた。
(小瓶以外にもヘビみたいな長細い胴体の生き物が瓶詰めされた瓶や何重にもテープで封がされた見るからに怪しい壺なんかもあったり)


多分小瓶の中に入っている液体は全部彼が作った薬で、ザッと見ただけでも棚に置いてある小瓶だけで100は余裕で越えている。
よほど薬を作るのが好きなんだろうが一般人の私から見たら思わずドン引いてしまう光景に別の意味で変態臭を感じていると、階段のほうから足音が聞こえ2階から青年が下へと降りてきた。



「待たせしてしまってすみません。普段客人が来るような家ではないので探すのに手間取ってしまって…」



そう言うと青年は手に持っていたタオル生地の布と白いシャツを手渡してきた。



「何これ?」
「見てのとおりです。そのままだと風邪をひいてしまいますから地下室にある風呂場で身体を温めてきてください」



あぁ、なるほど。そういうことか。
全身ずぶ濡れとまではいかないが、雨に濡れて湿った髪や服が肌に張り付いてずっと気持ち悪いと思っていた。それにさっきからなんだか鼻がムズムズして今にもくしゃみが出そうだ。



「アンタはいいの?」
「え?」



特にこれといって特別な意味はなかったが何となく気になって聞いてみると青年は変に態度を変える様子もなく、



「僕は後から行くので大丈夫です。寒さには慣れていますから」



そう言って机の上に散らかっていた器具やその辺の床に落ちている本などを片付けはじめた。


森を歩いていた時は気の利かない男だと思っていたが、井戸の一件もあったせいか少しずつ私との接し方に慣れてきたんだろう。
私もそれ以上は何も言わず、今は彼の気遣いに甘え風呂場があるという地下室へと降りていった。





***





「ヒャン!」



地下室へと通じる急な階段を降りて行き金属製の重い扉を押した瞬間モワッとした暖気が顔に触れた。


恐る恐る中へと入り目の前に吊るされていた仕切りのような薄いカーテンを開けるとそこには確かに風呂場があった。
(そして何故かトトまで一緒についてきてしまった)


湯船は思っていたよりも広く、魚の形をした彫刻の口から乳白色のお湯がチョロチョロと出ていて、湯面には赤い花びらが浮かんでいた。


なんていう贅沢!まるで高級リゾート地にあるような風呂!
毎日こんな良い風呂に入っているのかと思うと地味にムカつくが、高級感溢れる風呂にちょっと期待する。


濡れた服と下着を床に脱ぎ捨てその辺に落ちていた適当な紐で髪を高い位置で結ぶと、すぐさま冷え切った身体をお湯の中へと沈めた。



「はぁ〜…気持ちいい〜…」



白い湯気が部屋中に充満していたから少し熱めのお湯かと思ったが丁度良い湯加減で、折りたたんでいた足を思いっきり前に伸ばす。
極楽というのはきっとこういうことをいうのだろう。疲れがお湯に溶け込んでいくかのように、ずっと体内に溜め込んでいた緊張が解れ自然と顔の表情が和らいでいく。


肩までお湯に浸かり視線を上に上げ、湯船へと落ちる水の音しか聞こえない静かな空間に耳を澄ませる。



「…何やってるんだろアタシ」



さっきまでの悪夢みたいな光景がまるで嘘のように、ここには平穏とした時だけが流れ嫌なこと全てを忘れさせてくれるような気にさせた。


ここから早く抜け出したいはずなのに、いつの間にか彼のペースにハマってこんな所までついてきてしまった自分が情けない。でも疲労なのか、このお湯のせいなのか、だんだん意識が遠くなっていくのを感じ、肩までどころか顔の半分までお湯に浸かる。



「ヒャンヒャン!」



するといつの間にか湯船の縁に手をついたトトが尻尾を振りながらこっちを見つめていた。



「何?アンタも入りたいの?」
「ヒャン!」



それはイエスなのかノーなのかよく分からなかったが、トトもまた雨に濡れゴミ置場で出会った時よりも酷く使い古されだボロ雑巾のような貧相な姿になっていた。



「ヒャンヒャン!」
「待って待って。そんな身体で入ったらお湯が汚くなるでしょ」



どうやら本当に一緒に入りたいらしく、前片足を湯の中に入れ今にも飛び込んできそうなのを慌てて手で阻止する。その土と埃で汚れた身体で入られたら一変に湯船が土色になってしまう。



「今汚れを落としてあげるからちょっと待ってて」



仕方なく湯船から身体を上げトトの首元を手で捕まえると、近くに置いてあった桶で湯船のお湯を汲みゆっくりとトトの身体にかけてあげる。



「どう?気持ちいい?」
「ヒャン!」



パタパタと尻尾を2回振って返事をするトト。犬もこのお湯の気持ち良さが分かるのか、お湯をかける度に情けない顔がさらに情けない顔になっていく。


排水溝に流れていく土色のお湯を見て、もう少しかけ湯で綺麗にしてあげようともう一度桶でお湯を汲もうとした時、



「あれ?」



視線を真下に落とし半分お湯に浸かった足元を見ると、ゴミ置場でつけた膝の擦り傷がなくなっているのに気が付く。
膝だけではなく、身体のあちこちに赤みを帯びた擦り傷や痣をつくっていたはずなのに、今はすっかり元の綺麗な肌色へと戻っていた。



「うそっ、なんでっ?」



湯船に浸かった時も傷口に沁みて痛むことも血がお湯に滲むこともなかった。傷口が浅かったとしても、履いていたタイツが破けるほどの傷がこんなに早く治るはずがない。


ふと視線が湯船に浮かぶ花びらに目がいく。
そういえばさっき青年が言っていたっけ。外に咲いている花は全部薬になると。


もしかしてこの花が傷を?


「花だけじゃないですよ。お湯にも治癒効果があって掠り傷程度のものなら瞬時に修復してくれるんです」



どこからか聞こえてきた丁寧な説明に思わず納得する。
よく見ると乳白色のお湯に僅かに花びらの赤が溶け込み薄いピンク色の色素が滲んでいた。きっとこれが傷口を癒してくれたんだろう。



「それから女性には嬉しい美肌効果もあるんですよ」



疲れもとれて、傷の修復もできて、美容にも最適なんて一石三鳥でしょう?という言葉にまた納得する。


………
………
………
ん?


何気なく頷いていた自分だったが、声のするほうに視線を向けて初めて状況を理解する。
そこには何故かカーテンの前にシャツのボタンを全開に開けた半露出狂(青年)が立っていて、顔を隠すどころか瞬きひとつせずこっちをじっと見つめていた。


あ…。


お互いの目が重なり、でもすぐに青年の視線が下へと下がりそれにつられて私の視線も下に向く。


そうだ…。
アタシ今裸なんだ…。



「!!??」






咄嗟に手に持っていた桶を青年に向かって投げつけ(余裕でかわされたけど!)両手で胸を隠す。しかし「胸よりももっと大事なところが見えてますよ」と彼にツッコまれ慌てて湯船の中に身体を沈める。その瞬間大量のお湯が溢れ出す。



「な、なんでアンタがここにいるのよっ!?変態っ!!」
「なんでって…後で行くって言ったじゃないですか」



眉間にシワを寄せ青年を睨みつけるが、彼はいつもと変わらない態度と口調で湯船の中で縮こまった私を上から目線で見下ろした。


私としたことが…。まさか彼が言っていた「後で行く」という言葉の意味がこういうことだったとは思いもよらず、完全に目の前のことに気をとられてしまっていた。


女友達の家に遊びに来ているんじゃないんだから!
相手は初対面でも平気でディープキスするような変態なのに!
ていうか完全に見られたよね!?ガン見してたよね!?


風呂の温度と身体の奥底から込み上げてくる羞恥心で顔が熱くなる。


そんな私をただ呆然と突っ立って見ていた彼が軽い溜め息をつき、



「分かりました。僕も脱げば問題ないでしょう」



目の前に私という女がいるというのに、青年は着ていたシャツを脱ぎベルトのバックルを外すと躊躇なくズボンを下へとおろした。その瞬間慌てて両手で顔を隠し目を固く閉じる。



「ちょっ、バカっ、何脱いでんのよ!?」
「そう言われましても…。僕もこの通り全身びしょ濡れで今にも風邪をひきそうなんです」



どこかの誰かさんにローブと帽子を貸してしまったせいでとニヤついた声で嫌なところをツッコンでくる彼に私は何も反論出来ず、ただ黙って彼が脱ぎ終わるのを暗い視界の中で待った。 折角1人で極楽気分を味わっていたのにこの男のせいで台無しになってしまった。



「もう開けていいですよ」



その声と同時に湯船のお湯が揺らぎ、恐る恐る目を開け指の間から彼を確認する。


汚れがとれ綺麗になったトトを胸の前に抱き完全にリラックスモードの彼が今は手が簡単に届く範囲のところにいて何故か一瞬ドキッとする。
男の裸に1ミリも興味はないが、程良く筋肉がついた痩せ型の体型と日焼けがない白い肌、そして女性と見間違えてしまうほどに整った顔立ちにまた顔が熱くなる。もし彼が女で綺麗な服を着て町を歩いていたら、男はもちろん、同じ女の私も見惚れてしまっているだろう。
でも現実はそうではないので、なるべく危害が加わらない湯船の端へと寄り彼から距離をとる。


不機嫌な顔でじーっと青年のほうを睨んでいる、冷たい視線に気付いた彼が悪戯っぽい笑みを浮かべ、



「そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか。僕達もう恋人同士なんですし」



は?


この男、今何て言った?
恋人?誰と誰が?



「アンタ何言って…」
「手、見せてもらえますか?」



手?
何のことだと思いつつ言われた通り手を出して見る。



「手がどうしたのよ」
「右じゃないです。左です」



そう言われ右手ではなく今度は左手を出す。


特に何の変わりもない左手。
しかしよく見ると小指の第一関節に赤い糸のようなものが薄っすらと巻きついているのに気が付く。え?何これ?



「それは契りの糸といって誰かと大切な約束を交わす時に使われる契約魔法の1つです。約束を交わすとこうして双方の小指に糸が巻かれるんですよ」



淡々と糸について説明する青年に私は途中からついていけずにいた。


契り?契約魔法?
そんなものした覚えがないはずなのに青年の言うとおり彼の左手小指にも同じ赤い糸が結ばれ、その糸は私の小指と繋がっていた。



「僕があなたに箱庭という安全な場所を提供する代わりに、あなたは僕の恋人としてここにいてもらいます」
「………」



地下室に漂う沈黙に彼の腕に抱かれていたトトが「ヒャン?」と不思議そうに首を傾げる。
しかしその沈黙を破るかのように静まった空間に雷が落ちる。



「ふざけないでよ!なんでアタシがアンタの恋人なんかにならなくちゃいけないのよ!」
「だから今言った通りこれは契約で決まったことなんです」



そう言うと青年は立てた小指を手前にクイッと引くとまるで人形を操る操り糸のように私の小指も彼のほうへと引っ張られ反射的に身体がビクリと反応する。今まで感じたことのない奇妙な感覚に嫌悪感を抱く。



「で、でも契約なんてアタシ…っ」
「契約を交わしたのはゴミ置場であなたを助けた時です。2人組みの男からあなたを庇った時、僕が何と言ったか覚えてますか?」



その言葉に私は少し前に起きたことを必死になって思い出す。
あの時はとにかく逃げることだけを考えていて正直彼に無理矢理口移しで薬を飲まされたこと以外よく覚えていないが、思い出すうちにふとある言葉が思い浮かんだ。


『 この人は僕の大切な恋人です 』


彼はそう言って私に視線を向け、私はその言葉に小さく頷いた。


まさかそれが?
でもあれは…、



「あれはアンタが勝手に言ったでまかせで…っ」
「でまかせでもあなたは僕の問いに答えてくれましたよね?」


湯気で湿った長い前髪から覗くエメラルド色の瞳が真っ直ぐこっちを見つめる。それに私はまた言葉を失い、目の前が真っ白になる。


あぁ…。
どうやら私はまんまとこの男に騙されたらしい…。


今更だがこんな都合のいい話があり得るわけがないことに気付かされる。
町を彷徨っていたところを突然現れた見知らぬ男に助けられ、まるで王子様に助けられたお姫様のような気分になっていた自分が馬鹿みたいだ。


これ以上彼に何を言っても意味がないのを察すると、私は口を閉じ視線を下へと向けた。湯面に唇を噛み締め怒りを抑えようとする間抜けな女の顔が揺らめく。



「何が目的なの?」
「目的?」



咄嗟の問いかけに彼が怪訝そうな表情で顔をしかめる。



「何か下心があったからアタシを助けたんでしょ?」
「どうして僕に下心があると思うんですか?」



どうして?という言葉が頭の中で響く中、突き刺さるような彼の視線に少し戸惑いながら、



「だって………男だから」
「すごい偏見ですね」



即座に切り返してきた彼の返答に言葉が詰まらせる。


彼の言うとおり偏見かもしれない。
だけど踊り子としてあの夜の店で働いてきた私には自分に近付いてくる男は皆そう見えてしまうのだ。


胸の前で組んだ両手をじっと見つめていると、青年は溜め息混じりに息を吐き、



「まぁ確かにあなたみたいな外見が綺麗な人を世の中の男は放っておかないでしょうね。僕もあなたを恋人に選んだ時点でそう疑われても仕方ない」



そう言って小指に巻かれた赤い糸を凝視する。



「でも別にそういう気持ちがあってあなたを助けたわけではないので安心してください」
「じゃあなんでアタシを恋人にしたの?」



思った疑問をぶつけると、彼は少し考え込む素振りを見せ、



「しいて言うならただの暇つぶしですかね」
「はぁ!?」



予想外の返答に素っ頓狂な声があがる。



「今の生活に何か不服があるわけではないんですが、毎日犬1匹とたまにやってくる可笑しな人達の顔ばかり見ているとたまに話し相手になってくれる花がほしくなってしまうんですよね」
「花なら外にいっぱい咲いてるじゃない」



間髪入れずにツッコむと彼は「そういう意味ではなく…」と渋い顔をした。


てっきり身体目的だと思っていたのにまさか理由がただの暇つぶしだったなんて。
あまりの適当っぷりに返す言葉が見つからず、唖然とした表情で彼を見つめた。



「要するにアンタは日頃の不満を満たすために優しいフリをしてアタシをここに連れて来たってことなんでしょ?」
「言い方が悪いですがそんなようなものです」



若干気にくわない顔で肯定を示す彼に思わず溜め息がでる。
でもそういうのが目的ではないと分かると少しだけ緊張が解かれ、いやでもこの風呂場から出るまではまだ気を許していけないような気がして緩んだ気持ちを引き締める。



「でもよく考えてみてください。もし僕があの場にいなかったらあの2人組に捕まって牢屋に入れられていたかもしれないんですよ。それに比べたら嘘でも僕の恋人役を演じたほうがまだマシだと思いませんか?」
「アンタが変態じゃなかったらもっとマシだったわ」



素直に思ったことを口に出すと彼は「何度も言いますけど僕は変態じゃありません」と珍しくいつもより強めのトーンで否定をしてきた。



「まぁでもあなたを騙して連れてきてしまったことには一応申し訳ないと思っているんで、平手打ちの一発ぐらいなら受けてもいいですよ」



少しは反省の色があるようで、平手打ちを受ける覚悟を決めると彼は嫌な顔ひとつせず私の目の前でそっと目を閉じた。
ずっとこのムカつく綺麗な顔を引っ叩きたいと思っていたがなんだかその気もだんだん失せてきてしまい、



「しないんですか?」
「いいわよ別に」



目を開けた彼にツンとした態度をとると湯船の壁に背中を押し付け肩まで浸かる。


私にその気がないのが分かると青年はニコリと微笑み、



「優しいんですね」
「………」



まさかそんな言葉をかけられるとは思わず、私の顔を覗き込んでくる彼から逃れるように視線を横へと逸らす。


今更彼を責めたところで何も変わらない。
それになんだかんだいって彼には色々と助けてもらった借りがあるし、ここで彼の機嫌を損ねさせるような行動は控えようと思っただけだった。



「そういえばまだお互いの自己紹介がまだでしたね」



その言葉にはたと気が付く。
ゴミ置場からここに来るまでそんなことを考える余裕もなかったし、正直興味もなかった。



「ルシアンと言います。今日からよろしくお願いしますね」



そう言って差し出される彼の右手に少し躊躇し「…シェリーよ」と手は握らずただ一言名前だけ名乗る。
ルシアンと名乗る青年はそれに対しては特に何も言わず「女性らしい素敵な名前ですね」と答え静かに手を引っ込めた。本当にそう思ったのかは知らないけど。


お互いの紹介が終わるとまた沈黙が流れる。



「1つ聞いてもいい?」
「何でしょうか?」



何か話題になりそうな話のネタはないかと探していた時、ふと思いついたことを単刀直入に口に出す。



「ここは一体どこなの?」



それはずっと心の中にあった疑問。
今までいくらでも聞ける機会はあったはずなのに、何故か時間が経つにつれその疑問が徐々に薄れていき忘れかけそうになっていた。



「現実なの?それもとも夢なの?」
「少なくとも魔法使いや異形の生き物がいる時点で現実ではないですね」



その後すぐに「知りたいですか?」と聞かれその問いに強く頷く。自分から聞いたのに知りたくないわけがない。


こっちをじっと見つめる彼、ルシアンに私は黙って唾を飲んだ。
そして少し重たそうに口を開く。



「ここはオズベル。人の手によって作りだされた夢の世界です」



オズベル。
聞いたこともない名前と夢という単語に一瞬不信感を抱くが、彼が嘘を言っているように見えずそのまま黙って耳を傾けた。



「どうしてあなたがオズベルにきてしまったのかまでは僕にも分かりませんが、あなたは今とても深い夢を見ているだけで目が覚めれば現実に帰れます」
「そうなの!?」



正直ここが本当に現実だったらどうしようかと思ったが、夢なら嫌でもいつかは覚める。
ずっと心中で溜っていたモヤッとした不安感が一気に解消される。



「でもこのオズベルという夢は普通の夢と違って自然に覚めることはまずあり得ません」
「えっ?」



その言葉に耳を疑う。
夢なのに覚めることがない?それは一体どう意味?



「じゃあどうすればこの夢から覚めれるの?」



そう尋ねるとルシアンは少し驚いた顔を浮かべながら、



「現実に帰りたいんですか?」
「当たり前でしょ!」



まさかそんなことを聞かれるとは思わず声を荒げ言い返す。
好きでこんな悪夢みたいな世界にきたわけじゃないのにここに居たい理由が私にはない。むしろ今すぐにでも帰りたい。


納得したようなしていないような表情を浮かべ急に塞ぎ込んだかと思うと「方法は無くはないですが少し長くなるので風呂を出てから話しましょう」と言って湯船の縁に手をかけ立ち上がる。その瞬間目の行き場に困り反射的に顔を横へと背ける。
(一応腰にタオルを巻いてはいるけど)



「先にあがりますね。シェリーさんはごゆっくりどうぞ」



そう言って少しのぼせ気味のトトを抱えたままヒタヒタと出口のほうへと歩いていきカーテンの向こう側へと去っていった。


私もずっと長いことお湯に浸かっていたせいで身体が熱い。
ルシアンがカーテンの裏側で着替えをしている隙に自分も湯船から出ると、すぐさまタオルを手元に繰り寄せ身体にしっかりと巻きつける。そして彼が貸してくれたシャツを着てボタンをしめた後、シャツの下からタオルを取り出す。


あ、そうだ。
シャツに着終えた後、妙に下半身が涼しいのに気が付く。


彼から借りたのはシャツのみ。ズボンも下着もない。
いくら男物のブカブカなシャツでも少し前のめりに身体を倒せば後ろからお尻と太ももとの付け根のラインが見えてしまう短さ。さすがにこれはアウトだろうとお尻にかかるシャツを手で押さえる。


折角お風呂に入って身体を綺麗にしたのにすでに1回履いている古い下着を履くのは女としてどうかと思う。でも男の家でノーパンでいるほうが色々とマズイような気がする。



「………」



ルシアンに頼んで下着を調達してもらうのもなんだかんだ気が引けて、とりあえず今は古い下着を履いておこうと床に脱ぎ散らかした服と下着に手を伸ばそうとした時、



「ん?」



お風呂に入る前にそこに置いておいたはずの服と下着がなくなっていた。



「アタシの服は…?」
「あぁ、それならさっき僕の服と一緒に洗濯に出しておきましたよ」



カーテンの反対側で着替えていた彼がそう答える。


いつの間にそんなことを。
彼なりの気遣いだったのだろうが、今は余計なことをしてくれたなという小さな怒りが芽生えた。



「あぁ、それと黒い紐みたいな布も一緒に出しておきましたよ」
「黒い紐?」


彼の言葉に一瞬思考が停止し、



「それアタシの下着!」
「えっ?あれ下着だったんですかっ?」



まるで初めて女物の下着を見たかのような驚き声をあげるルシアン。
いつもの癖でその辺に脱ぎ捨ててしまった自分も悪いのだが、この男に服どころか下着を、それも仕事の時に履くちょっと破廉恥な黒の紐パンを見られてしまうとは。


もうやだ…。
死にたい…。


恥ずかしさから赤くなった顔を手で覆って呻いていると「シェリーさんって服以外も大胆なんですね」と顔は見えないが小さなクスクス声が薄いカーテン越しから聞こえてきた。その瞬間今まで自分の中で必死に我慢していた何かがプチンッと音をたてて切れた。



「さすがに僕も女性の下着までは持っていないのでそのままでも全然構いませんよ」


まだこっちは下半身丸出しだというのに着替え終わったルシアンが笑いながらカーテンを開け、



「むしろ何も履かないでいてくれたほうが僕的には嬉しい…」
「うるさい変態っっ!!」



とりあえず今までの鬱憤も含め、無防備だった薄い腹に向かって自慢の拳をおみまいしてやった。