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人目を避けながら迷路のような裏路地を足早で歩く青年を私はいつもより大きな歩幅で後をついて歩いた。


辺りはさらに闇が深くなり、道に沿って等間隔に並ぶ背の高い街灯に黄色い灯りが灯りはじめる。憂鬱な気持ちにさせていた雨もいつの間にか止み、空を覆い尽くしていた雲が次第に薄れていきその間からキラキラと星が輝く夜空が顔を出した。


そのまま視線を頭上に向けながら歩いていると、ふと足裏に違和感を感じた。
視線を下に落とすと今まで歩いていた灰色の石畳はそこで途切れ、その先は地面が丸出しの雨で湿った茶色い土の道が続いていた。どうやら町の外に出てしまったようで、道はそのまま直線上に伸びその先には木々達が鬱蒼と生い茂る森が待ち構えていた。


街灯なんて物もなく、まるでここで世界が分離しているかのように黒一色に塗り潰された夜道に身体が一瞬森に入るのを躊躇う。
しかしそんなことなどお構いなしに青年はスタスタと犬のトトと一足先に森へと足を進める。少しはこっちのことも気にかけなさいよと小声で悪態をついてみるが、彼は振り返る様子もなくそのまま森の中へと消えていった。
森の入口に1人取り残された私はムッとなり、でも背筋を舐めるような冷たい風と周りから聞こえてくる謎の生き物の鳴き声や物音に身体をビクつかせる。まるで森が早く行けと言っているかのように聞こえ、渋々彼の後を追いかけた。


森の中は予想以上に暗く、霧のような白いモヤが森全体に漂っていた。視界がはっきりとしないせいで前に進むのも困難で、自分の前を歩く長身の人物と、その足元を短い足で歩く白い毛玉だけが唯一の道標だった。
こんな所で迷子になったら一生迷っていられる自信がある。そう思うと青年からはぐれないよう歩くペースを少し速め、彼の横顔が見えるところまで距離を縮めた。


「………」



ふと視線だけ横に動かすと、物静かな彼はじっと前だけを見つめ森の奥へと足を進める。私(女)に興味がないのか、それともただのマイペースなのか、その無表情な顔からは何を考えているかよく読み取れなかった。


男が1人と女が1人、そして犬が1匹。
最初は何も感じなかった沈黙もだんだん重く感じてしまい、というより本当にこんな所に家なんかがあるのか不安と疑問が重なり合い、



「ねぇ、」



こっちから口を開いた時、青年の足がピタリとその場に立ち止まった。それにつられて私とトトの足も立ち止まる。



「着きましたよ」
「え?」



町のゴミ置場からここまでずっと無言を貫いていた彼がようやく言葉を口に出す。
しかし目の前には濃い白い霧がたちこめているだけで、家はおろか建物らしいものは見当たらない。



「何もないじゃない」
「ありますよ。ここに」



そう言うと青年は自分の腰に手を回しベルトに吊り下げていた掌サイズの小さなランタンを取り出した。


特に何の変哲もない普通のランタン。
三角傘の蓋を取り中央にある白い紐状の芯に向かって青年が軽く息を吹きかける。すると不思議なことに息がランタンの芯に触れた瞬間、芯に小さな赤い火が灯った。



「ちょっと!そんな便利な物持ってるならはじめから出しなさいよ!」
「え?…あぁ、これですか?」



彼の手の動作がピタリと止まり、少し驚いた表情で視線を私のほうへと向ける。



「これはただのランタンじゃなくて鍵なんですよ」
「鍵?」



きょとんとした顔でそう聞き返すと、青年はまた視線をランタンへと戻し三角傘の蓋をそっと締める。


ユラユラと揺れる火はだんだん勢いを増し、次第に火は暗い森を照らす炎へと姿を変えた。
突然目の前で起こった不思議な現象に思わずあんぐりと口を開けて見惚れる。周囲を照らすだけではなく、赤く燃えあがる炎をじっと見つめていると心なしか気持ちも暖かくなってきたような気がする。


すると森を漂っていた霧が薄くなっていき徐々に視界が晴れいく。
不意に顔を上へと持ち上げると、薄れていく霧の中から3メートルは軽く越す鉄格子状の大きな門が姿を現した。



「!?」



突如目の前に現れた巨大な門に思わず言葉を失う。



「とある事情でこの門は普段霧で隠しているんです。このランタンの炎は言わば門の鍵みたいなもので家の主人である僕にしか火が灯せない代物なんです」



筒型のガラスの中で炎がボゥと燃え上がる。
一見普通の炎と何の変わりもないはずなのに、青年の息で息を吹き返したかのように炎が小刻みに揺れる様子がまるで生きているように見え、私はその炎を見つめたまま何度も瞬きした。



「これも魔法だっていうの?」
「えぇ。魔法ですよ」



「ちなみにこれは僕が考案しました」とランタンを掌に誇らしげな顔を浮かべた。
この状況といい彼の発言といい相変わらずここが現実なのか夢なのか理解出来ずにいたが、もしこれが夢なら自分は相当疲れているのだなと思った。


もう用がなくなったのかランタンの蓋を開け火を消し後片付けをする青年を傍らに、門の前に立ち鉄格子の隙間から門の向こう側に目をやる。
遠くのほうに灰色っぽい何かが列になって並んでいるのが見えたが、霧がまだ若干残っているせいでここからではぼやけていてよく見えない。門に顔を近付け中を覗こうと鉄格子に手が触れた時小さな破片がパラパラと地面に落ちた。ここに建てられて大分経つのか、門全体に塗られた銀色の塗料が雨風からの腐食で剥がれ落ち、中から赤褐色の錆びた鉄が剥き出していた。



「この入口はほとんど使っていないので下手に触ると錆で手が汚れてしまいますよ」



そう言うと青年は門の前から私を退かし自分がその場に立つと、門の中央部分に付いている錆びたリング状の取っ手を両手で掴んだ。気持ち腕に力を込めて前に押すと、ギィという重たそうな音を響かせながら鉄格子の扉がゆっくりと左右に開いた。



「どうぞ中へ。足元が悪いので歩く時は気をつけてください」



手についた錆や塗料の破片をはらいながら門の向こう側へと足を進める青年の後に続いて自分も止まっていた足を一歩前に出し門をくぐる。しかし敷地内に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできた意外な光景にまた足が立ち止まる。


今まで通ってきた霧がかった森とはガラリと雰囲気が変わり、そこには開放感のある灰色の空間が広がっていた。
空を遮る木もなく、青白い月の光が地上を照らし、その先にはどこかで見たことのある十字を掲げた石の置物が長い直線上の石畳の道の脇に沿ってずらりと並んでいた。視線を横に動かすと、敷地内を囲む高い塀の隅にも同じ形の石の置物が残骸としてあちらこっちに置かれていた。


その置物が何なのか、ここがどういった場所なのか私にもすぐに理解ができた。


「ねぇ、ここってまさか…」
「えぇ、見てのとおり墓地ですよ」



当たり前のように言い返してくる彼に何も言えず、ただ前を見据える青年を凝視する。そして自分はまたとんでもない奴についてきてしまったと心の中で後悔した。
彼が普通じゃないのは今に分かったことじゃないが、まさかこんな薄気味悪い場所に家があるとは予想もしなかった。いや、この場合誰も予想できないし、したくもなかった。


あまりにも衝撃的過ぎる光景に前にも後ろにも進むことも出来ず、その場に突っ立ったままもう一度辺りを見回してみる。
人によっては墓場は神聖な場所だと言う人もいるが今のこの状況ではとてもそんな心境にはなれず、森を通ってくる時に感じた冷たいオーラとはまた別のオーラを身に感じ思わず身震いする。



「もしかしてここに家があると思ってます?」
「え?違うの?」



隣で私の顔を覗き込んできた青年がぼそりと呟く。
いくら何でもこんな陰気臭い場所に住んだりしませんよ、と鼻で笑いながら付け加えると手招きをしながら墓地の奥地へと歩き出した。


まだ先があるのか。
でも墓地に家があるわけではないと分かると少しだけ気持ちが軽くなる。


道の塗装が剥がれ地面から突き出た石に蹴躓いたり裾の長いローブに足を取られたりしながら彼とトトの後に続いて墓標が互いに向き合って並ぶ長い参道を辿って歩いて行くと、参道は教会らしき建物の入口で途切れていた。


今はもう使われていないのかドーム型の屋根と共に白塗りの外壁は崩れ落ち、教会内に堂々と飾られていたであろうスタンドグラスも叩き割られ色鮮やかなガラスの破片が地面に散らばっていた。
でも1番驚いたのは、教壇の背後に立つ聖母像の顔。屋根がないせいで長い間雨に晒されて酸か何かで顔が溶けてしまったのか、その白く美しい顔は皮膚がただれ落ちたように醜く変化し目からは頬にかけて涙が流れていた。
聖母様異様な姿に顔を引きつらせながら、でもちょっと可哀想な気もしてしばらくの間聖母像から目を離すことができなかった。


まだここに人が訪れていた頃はきっと墓地も教会も手入れが行き届いたとても綺麗な場所だったんだろう。
そういえば私も子供の時両親に連れられて教会に行っていたことをふと思い出す。あの時はとにかく椅子にじっと座っているのが嫌で、いつも神父様の前で不貞腐れた顔を浮かべていた。そしてお祈りから帰ってきた後よく母親に叱られていたっけ。


そんな昔の記憶に思いふけっていると、前を歩いていた青年が教会の裏側に消えて行くのが見え慌てて走って後を追いかける。
教会の側面の道を通って裏側へと回り草木が生い茂るトンネルみたいな穴をくぐりながら蛇行した道を道なりに歩いて行くと、薄気味悪い無法地帯の墓地から草花が生える静かで落ち着いた場所に辿り着いた。


ここが墓地の奥地なのだろうか。
周囲全体が緑に囲まれているせいもあって、また森に逆戻りしたかのようにも思える。


すると奥地中央に青年が立っているのが見え駆け寄ると、彼の傍らに膝丈ほどの低い柵に囲まれた大人が2、3人が余裕で入れるほどの大きな井戸みたいな穴があった。



「何これ?」



柵を飛び越え井戸の中を覗き込む。これも今は使われていないのか中身は空っぽで、底が見えない真っ黒な空間が広がっていた。
興味心から地面に落ちていた小石を手に取り井戸の穴に投げ込んでみるが、何も聞こえてこない。底が深いのか、それとも底がないのか、まるで地獄の底に通じているようなそんな不気味さを感じた。



ドンッー!



「えっ?ちょっ、わっ!」



思わず夢中になって井戸に半分顔を入れ中を覗いていると、突然背後に立っていた青年に背中を思いっきり押された。一瞬片方の足が宙に浮きそのままバランスを崩し上半身が井戸の中に落ちかけそうになったが、そこは頑張って踏ん張り慌てて井戸の縁に手をかける。



「バカっ!危ないじゃないっ!」



心臓をバクバクさせながら青年の胸元に巻かれたマフラーを強く引っ掴む。もう少し反応が遅れていたら確実に井戸の中へ真っ逆さまに落ちていた。


しかし彼は特に申し訳なさそうな顔をするわけでもなく、



「この下なんですよ。僕の家」
「は?」



思わぬ言葉に思わず間抜けな声が口から出た。



「下って………この井戸の下?」
「はい」



聞いた言葉をもう一度聞き返すと青年はコクリと首を縦に振り、指差しで地面のほうを指した。



「入口は他にもあるんですがそっちは危険なので比較的安全な入口がこの井戸なんです」
「どこが安全なのよ!?危険な匂いしかしないじゃない!!」



井戸の底に通じるハシゴがかけられているわけでも、命綱になる紐があるわけでもないこの井戸を"比較的安全"と判断する彼の感覚と神経を疑う。



「他の入口があるならそっちに案内しなさいよ!」
「急にそう言われましても…」



掴んだマフラーを引っ張りながら前後に揺らすと彼は溜め息をつき少し面倒くさそうな顔を浮かべながら「ここから入ったほうが近いんですけどねぇ…」と目を細めこっちを見つめてきたがそこは敢えて見ないフリする。
(距離の近さよりまず安全性優先しろ!)


掴んでいたマフラーから手を離し、井戸に背を向け身体の向きを変える。
「いいから早く案内して」そう言い放ち来た道を戻ろうと柵を飛び越えようとしたその時、突然青年の手がスッと私の前に出される。



「どうしたの?」
「………」



青年は黙ったままさっきまでとは違う厳しい顔つきで前を見据えていた。



「残念ですが入口はここだけしかないみたいです」
「?」



最初はその言葉の意味がよく分からなかったが、彼が見つめる方向に視線を向けたことでようやくそれを理解する。


自分達が今いるところから少し離れた前方に黒い何かが動いているのが見えた。太い黒色の糸のようなものが風に吹かれ揺られているようにも見えたがそれにしては動きが妙に生き物っぽくて、というかなんで地面から糸みたいなものが湧いて出てきているのか不思議に思い反射的に青年の背後へと身を隠す。



「ちょっと!何のよアレ!?」
「………」
「何か言いなさいよ!!」



黙り込む彼の後ろで1人騒いでいる自分が馬鹿みたいに見える。


動きは鈍かったが、カサカサと草の茂みを掻き分けながら確実にこっちへと近付いてきている黒い謎の物体。糸のように見えていた物体は他の糸と絡まり合い、それがだんだん触手のようにも見えてきて何とも言えない気持ち悪さが全身に鳥肌を立たせた。


絶対アレには触りたくない。
そう思って後ろへと後ずさるが背中に硬い何かが当たり、振り返ると大きな口を開けた井戸が邪魔をする。



「完全に囲まれてしまいましたね」
「え!?」



気が付くと私達の周囲は黒い触手に囲まれ、すでに退路を失っていた。



「すみませんが今すぐその井戸に飛び込んでもらえますか?正直僕もアレには関わりたくないので」
「無理よ!絶対無理!」



こっちに向き返った青年がまた半ば無理矢理井戸の穴の中に私を落とそうしてきたが、負けじとこっちも彼のシャツを引っ掴んで抵抗する。



「だって底見えないし!アタシ高所恐怖症だし!落ちたら死ぬし!」
「じゃあアレに捕まってもいいんですか?絶対ヌルヌルしてて気持ち悪いですよ?最悪ここで触手プレイ大公開になる得る可能性も…」
「それも無理!」



心の準備もないまま勢いだけで飛び込むのはいくらなんでも心臓に悪すぎる。というか自殺行為に等しい。
でもこのまま何もしないでこの場にいたら確実に襲われる。



「ヒャンヒャン!」
「ほら、トトが早く行けって言ってますよ」
「いーやーっ!!」



上からは青年がグイグイと私の身体を押し、下からはトトが急かすように吠える。


頭では分かっているが最初の一歩がなかなか踏み出せない。
勇気を振り絞って少し高めの井戸の縁に片足を置いてみるが、井戸の底から吹く温かく湿った風と底が見えない恐怖に完全に怖じ気付いてしまい、



「やっぱり無理っ!」



いい大人がまるで駄々をこねた子供のように縁に置いた片足を地面に戻しその場にうずくまる。もういっそのこと思いっきり突き落としてもらったほうがいいじゃないかと思えたがそれはそれで怖い。


するとそんな私を見兼ねた彼が私を押す手を止め、



「仕方ないですね。…トト、先に行って下で待っててくれますか?」
「ヒャン!」



足元にしたトトに向かってそう言うとトトは素直に反応し、井戸に爪をたてると一生懸命前足と後足を上手く使いながら縁によじ登る。
(足が短いからジャンプしても上まで登れないようだ)


そしてその小さな身体が縁に上がった次の瞬間、トトは何の躊躇いもなく後ろ足を蹴り井戸の穴に向かって飛び込んだ。それはほんの一瞬のことで、次に瞬きをした時にはトトの姿は井戸の暗闇に飲み込まれ消えてしまっていた。


呆然とした顔でトトが落ちていった穴を見つめていると、



「さて、僕達も行きましょうか」
「え″?」



気合いを入れるかのように緩んだマフラーをキツめに締めシャツの袖を捲りあげると、青年はしゃがみ込んだ私の背中と膝裏に手を添えそのまま一気に上へと持ち上げた。予想外の行動にびっくりして「きゃっ」という似合わない悲鳴が口から飛び出す。



「ちょっ、アンタ何して…っ!?」
「いやー、一緒に飛び込めば怖くないかと思いまして」



一瞬思考が停止する。
まさかこの男、この状態で井戸に飛び込もうとしているのか?



「無理無理!絶対む…っ」
「それはさっきも聞きました」



足をバタつかせながら全身で抵抗をするが、青年は両手でしっかりと私の身体を固定し逃がさんとばかりにわざと抱える位置を高くする。そのうえ「あんまり動くと落ちますよ」と悪戯っぽい笑みを浮かべながらぽっかりと空いた穴のすぐ近くで身体を左右に大きく揺らす。



「バ、バカっ、やめ…っ!」
「おっと」



彼が調子に乗ったせいで背中を支えていた手がずれ落ち身体のバランスが崩れる。
落ちる!と思ったが、危機一髪のところで青年が体勢を整え私が彼のシャツを掴んだことでお互いの動きがピタリと止まる。今のは本気で危なかったと至近距離で互いの顔を無言で見合わせる。



「意外ですね。こんなにも怖がるなんて」



ふと耳元で囁かれ、思わずビクリと身体が反応する。



「当たり前でしょ!そう言うアンタは怖くないわけ!?」
「そりゃあ怖いですよ。下手な着地をしたら骨が折れてしまうかもしれませんからね。それに打ち所が悪かったら血やら内臓やらが飛び出てきて…」
「冷静に答えなくていいから!」



さっきまで無口だったくせに急にベラベラと喋り出す彼をキッと睨みつける。でも彼はそんな私の反応を見て楽しんでいるようで、余裕ぶった表情で口角を上げいやらしく微笑む。



「大丈夫ですよ。こう見えて僕、結構頑丈なほうなんですから」
「どこがよ!骨と皮しかない鶏ガラじゃない!」






男にしてはかなり細身の身体を肘で突っついてやる。
普段何を食べたらこんな身体になるのか、雨で濡れて透けたシャツ越しから薄っすらと見える角ばった骨格に目がいく。こんな華奢な身体で飛び込んだら骨の1本や2本平気で折れてしまいそうな気がした。


すると私の安易な発言が少し気に障ったのか青年の顔から笑みが消え、



「嘘だと思うなら飛び込んでみましょうか?」
「ちょっ、待っ、本気っ!?」



井戸の縁に片足を置き、いつでも飛び込む状態までもっていく彼に私はまた慌てる。
いくら2人一緒に飛び込んだとしても安全だという保証があるわけでもないし、こっちのほうが絶叫マシーン感覚でいつその時がやってくるかが分からないから1人で飛び込むよりも数倍恐怖を感じてしまう。しかし背後にはすぐそこまで触手が近付いてきているのが見え、彼のシャツを掴んでいた手にキュッと力が入る。


井戸に飛び込むのは嫌。でも触手に捕まるのも嫌。
2つの選択肢がぐるぐると脳内をかき乱し、興奮と緊張から呼吸が徐々に乱れ頬に冷や汗が流れる。



「大丈夫ですよ」



その時、落ち着いた声が上からふってきて下に向いていた視線が自然と上に向く。



「何があってもあなたに傷を負わせるようなことは絶対にしませんから」



エメラルド色の左目がじっとこっちを見つめる。相変わらずの無表情で、でもどこかその眼差しに真剣さを感じ思わずその瞳から目が離せなくなった。
はじめて彼と目があった時もそうだった。彼の瞳に見つめられると何も言えなくなってしまう。言葉を失ってしまう。


結局言い返す言葉が見つからず、荒い呼吸を無理矢理落ち着かせ緊張で上がったままだった肩を静かに撫で下ろす。青年はそれを見て「良い子です」と小さく呟くと、もう一度その場で態勢を立て直し視線を井戸へと落とす。



「舌を噛むといけないんで口は閉じててください。手も振り落とされないよう僕の首にまわして」



言われるがままに開いていた口を固く閉じ、両腕を恐る恐る青年の首にまわす。私が彼のローブをとってしまったせいで彼の身体はすっかり冷え切っていたが、薄いシャツ越しに感じるその冷たさと微かな人肌に今は少し安心感が持てた。



「3でいきますよ。1…」
「ま、待って!せめて5で…っ!」



カウントがはじまった瞬間咄嗟にストップをかけそうになったが、すぐ背後まで迫ってきている触手に気が付いた彼が「3」と唱える前に井戸の縁に置いていた足に力を入れ思いっきり蹴る。
その瞬間地面についていた足が離れ身体がふわりと宙に浮く。しかしそれはほんの一瞬だけで、大人2人分の重力はそのまま穴へと吸い込まれるように加速して落ちていった。


視界は灰色から黒へ。
腹の奥底に溜めておいたはずの悲鳴もどこかに消え去り、ただ彼から引き剥がされないことだけを考えて必死にしがみついた。


私にとってこれが人生初めての、命綱なしのバンジージャンプとなった。