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ぽつりぽつりと鉛色の空から降り出した雨。
次第に雨足は強くなり、遠くが霞んで見えなくなるほどの大粒の雨が地上へと降り注いだ。



「はぁ…っ、はぁ…っ」



雨で濡れた石畳の上を裸足で走り続けていた私は今自分がどこにいるのかも分からず、でもあの大通りから少しでも離れようと傘をさし道を歩く人混みを避けながらただひたすら前に向かって走った。


そのうち走るのに疲れ、大人1人がギリギリ通れそうな建物と建物の隙間へと逃げ込んだ。
肌を壁に擦りながら細く長い隙間を抜けると、少し開けた場所に出る。どうやらゴミ置場の一角のようで、ゴミが入った袋や空の瓶がそこらじゅうに散乱し小さなゴミ山を作り出していた。普段なら絶対近寄らないようなこんな汚い場所もこの際隠れられるのならどこでもいいと、地面に転がった袋や瓶を適当に退かしゴミ山の影に隠れるように身を潜めた。


冷たい地面に座り込み乱れた呼吸を整える。
肺に溜まった空気を吐き出す度に白くなる熱い息。あんなに胸が焼けるぐらい走ったのに足や指先の感覚がだんだん無くなっていくのを感じる。



「…キース」


ふとあの男の名前を呼ぶ。
他の女の子には優しいくせに、私にはいつも適当な態度であしらう男。あんな奴嫌いなのに。
でもいつからだろう。1人になるといつもあの男のヘラヘラしたムカつく顔が脳裏に浮かぶ。もしもここに彼がいたら、なんて思ってしまう自分が情けない。私は他の子とは違う、男にすがるような弱い女なんかじゃないのに。


膝を両手で抱え込みその間に顔を深くうずめる。
キースでもマスターでも誰でもいい。誰か私をこの悪夢みたいなところから助けて。



「ヒャン!」



その時どこからか鼓膜に響くような高い声が聞こえた。
なんだろうと顔を上げると目の前に積まれたゴミ山の中からごそごそと小さな白い塊が動いているのが見えた。



「ヒャン!」



犬だった。
布が擦り切れるまで使い古されたボロボロの古雑巾のような色の犬がひょっこりと顔を出した。


野良犬?一瞬そう思ったが、首には緑色のリボンが付いていた。飼い犬ということはどこかに主人でもいるのだろうと周りを見渡してみたが主人らしき人物はどこにも見当たらない。



「ヒャンヒャン!」



お腹でも空いてるのか、それとも喉が渇いているのか、口からだらしなく舌を出しこっちをじっと見つめてくる犬に思わず溜め息が漏れる。



「悪いけど今は何も持ってないの」



言ったところで人間の言葉など分かるはずもないだろうが一応両手を広げ何も持っていないことを示してみる。犬は呑気な顔で首を横に傾げるとまた「ヒャン!」と高く鳴いた。
おかしな犬。そう心の中で思っていると、ゴミ山の上に座っていた犬が急に歩き出し私のほうへと近寄ってきた。手を伸ばせば触れられるほどの距離まで近付いてくると、撫でてほしいのか執拗に毛むくじゃらの身体を私に擦りつけてくる。雨で濡れた白い毛が肌にまとわりつきくすぐったい。



「変な犬」



思わずクスリと笑みが零れる。まだ笑うだけの力が残っていたんだと自分でも少し驚く。


そういえば私も子供の頃犬を飼っていたっけ。
両親を事故で亡くし田舎に住む祖父母のもとに引き取られた私は周りに友達と呼べる人が1人もいなかった。そんな私を見かねた祖父が誕生日に1匹の子犬をプレゼントしてくれた。
出会った時から甘えん坊で、ご飯を食べる時もお風呂に入る時も寝る時も私のそばを片時も離れなかった私の親友。大人になって都会に移り住んだ直後に老衰で死んでしまったけれど、最後まで幸せそうな顔だったと祖父が言っていた。確か名前は…、



「トト」



思わずその声につられて視線を上に上げると、さっきまで犬が座っていたゴミ山の上に今度は人影が立っていた。
緑色のローブのような衣を身にまとった長身の人物。深く被った黄色い薔薇の冠が付いた三角帽子のせいで顔がよく見えないが、声からして男だろう。



「ヒャン!」



声に気付いたのは犬も一緒だったようで、私のもとを離れるとゴミを掻き分けながら一目散にその人物がいるほうへとかけて行く。



「また勝手に抜け出して…。今日は町が騒がしいから外出は禁止だと言いましたよね?」



その場にしゃがみ込むと、少しキツめの口調で足元に寄ってきた犬の頭を撫でる。
この人があの犬の主人なのだろうか。慣れた手つきで頭や顎を撫でる度に犬は嬉しそうな顔で尻尾を左右に振っている。


その様子をじっと見つめていると、こっちの存在に気付いた主人と目が合い、何故かその瞬間身体がピクリと跳ねた。
三角帽子で見えなかった顔も今ならはっきりと見える。エメラルド色の瞳に、胸元まである長い金髪をサイドで結んだ顔の整った綺麗な青年だった。
しかしその綺麗さに混じって1つだけ気になるものがあった。それは長めの前髪で隠された右目。見惚れるようなエメラルド色の左目とは違って、右目からはあの黒い瞳に似た気配を感じた。



「………」
「………」



無言のままお互いの顔を見つめ合っていると、ふと自分がおかれている状況に気が付きはっと我に返る。


そうだ。私、今追われてるんだ。
なぜ追われているのかも未だによく分からないが、とにかく今は人と会ってはいけないような気がして慌てて重い腰を立たせる。


逃げなきゃ。遠くへ。誰にも見つからない場所へ。
また雨の中を走り出す。しかし一歩を踏み出した瞬間、地面に無造作に転がっていた瓶に気付かず、そのまま障害物に蹴躓くと身構える暇もなく前へと倒れ込んだ。倒れた拍子に足で蹴飛ばした瓶が勢いよく地面を転がり、近くに並んで置かれていた他の瓶をボーリングのピンのように弾き飛ばす。静かだった裏路地に派手な音が響く。



「痛…た…っ」



尻もちをついたまま強く地面に打ち付けた腕や足を摩る。履いていた黒のタイツが破れ、剥き出しになった肌から薄っすらと血が滲み出る。
まさかこんなところでこんなバカみたいな醜態を晒すなんて。思わぬ失態に顔が熱くなる。だがその熱さも一瞬で冷めてしまう。



コツコツー、



こっちに近付いてくるゆっくりとした足音。
その音は自分のすぐ背後で止まり、肩越しに後ろを振り返って見るとあの青年がその場に立つ尽くしていた。



「ぁ…、」



やめて。こっちにこないで。
そう叫びたいのになぜか喉から声が出ない。それどころかこっちを見下げる冷たい視線と表情に呼吸が止まる。


すると不意に自分へと伸びてきた手に恐怖心を覚え、反射的に目を閉じ両手で顔を覆い隠した。
もうダメだ。そう心の中で覚悟し身構えた瞬間、手ではない何かが肌に触れるのを感じた。



「………?」



恐る恐る目を開けて見ると、私の肩に厚みのある大きな布がかかっていた。見覚えのある緑色の布。



「そんな格好で外にいたら風邪をひいてしまいますよ」



薄いシャツ1枚だけになった彼が肌寒そうに手で身体を擦りながらぼそりと呟く。そして肩にかれられた布がさっきまで彼が着ていたローブだということに気付く。



「帽子もどうぞ。多少の雨避けにはなるでしょう」



そう言ってローブだけではなく自分が被っていた三角帽子をそっと私の頭にのせる。


予想外の状況に私は言葉を失い、目をぱちくりさせながら青年を見つめた。
ここはありがとうと礼を言うべきなのか、それとも彼を押しきってこの場から逃げるべきなのか。多分後者を選ぶのが正しいのだろうが今の私にはそんな気力も余裕もなく、ただ鉛色の雨空の下、彼から渡されたローブで冷えた身体を包み、帽子の鍔をおさえ彼に顔が見えないよう表情を隠した。きっと私の顔は今寒さで赤くなっているはずだから。


とその時、どこからか慌ただしい足音が耳に響いてきた。



「!?」



建物の壁に反響して聞こえてくる複数の足音。


誰かこっちに来る。もしかしたら大通りで私を捕まえようとしたあの大男かもしれない。
足音がだんだん大きなって聞こえてくる度に顔から冷や汗が流れる。


逃げなきゃ。
しかしここからの逃げ道は2つ。もと来た細い道と、今ここにいる場所からその先へと続く広い道。足音は広い道から聞こえてくる。なら細い道から逃げればと腰を浮かせ立ち上がろうとした瞬間、



「こっちです」
「え?」



青年が突然私の手を取り半ば強引に地面から立たせるとゴミ置場を囲むすぐ近くの建物の壁際へと移動する。そして壁を背に私を押し付けると、青年はその上から覆い被さる形で私と正面から向き合った。



「ちょっ、何…っ」
「静かに」






抵抗する暇も与えられず、私はただ彼の言う通りに口を閉じ動きを止めた。
目の前にいる彼との距離はたったの数センチ。逃げようにも顔の横には手が、股の間には片足が入れられ上手く身動きがとれない。完全に退路を断たれた。



「すみませんがしばらくの間目は閉じててもらえますか?」
「え?」



そう言うと彼は腰にぶら下げていた茶色のポーチの中からある物を取り出した。それは紫色の液体が入った手の内におさまるほどの小さな小瓶。
何だろうと不審に思っていると、彼は手際よく片手で小瓶の蓋を開け中に入っていた液体を口の中へと流し込んだ。


その後のことはほんの一瞬の出来事だった。
男とは思えないほどの色白の手が顔に触れ、雨の雫とともに指先が頬をつたっていく瞬間、身体の一部にある違和感を感じた。唇に触れる柔らかい感触と、口を無理やり割って入ってくるヌルヌルとした生温かい何か。



「…っ、!?」



それが何なのか分かると、つい反射的に相手の胸板を両手で強く押し自分から引き剥がそうと腕に力を込める。しかし相手は大の男。女のか弱い力が敵うはずもなく、抵抗していた両手は軽々と相手に絡めとられそのまま壁に固定されてしまう。



「………ん、…っ」



逃げようにも逃げられない切羽詰まったギリギリの態勢と、喉の奥へと流れ込まれる苦い液体に少しずつ身体に熱を感じる。
おかしい。こういうのことは仕事で嫌というほど経験しているはずなのに、今日の私は自分でも気持ち悪いと思ってしまうほど身体が素直に感じてしまっている。


相手が彼だから?そんなあり得もしないことを頭の隅で考えていると、視界の端に黒い人影が映り込んできた。



「おい!そこで何をしていル!」



その瞬間唇と両手が解放され、一瞬意識が飛びそうになったが横から飛んできた聞き覚えのあるカタコトな喋りにはっと意識と取り戻す。
青年のすぐ後ろに甲冑姿の2人組の男が槍と盾を持って仁王立ちで立っていた。しかも2人組のうち1人は大通りで私を捕まえようとしたあの大男だった。


まずい。この男は私の顔を知っている。
大男に正体がバレるのを恐れた私は、咄嗟に三角帽子を深く被り、青年の影に隠れるように身を潜めた。あまりの恐怖と緊張感に青年のシャツをギュッと両手で掴む。



「何って………見ていた通りのことをしていただけですが?」



するとさっきまで無表情で無言を決め込んでいた青年が口を開く。どこか挑発的な笑みを浮かべながら、片方の手を私の腰に回し自分のほうへと抱き寄せると鋭い視線で男達を軽く睨みつける。
その視線に少し戸惑った様子を見せる男達。しかし大男のほうはすぐに眉を潜め怪訝そうな表情を浮かべると、青年から私のほうへと視線を移した。



「そっちの女ハ?」



その言葉にビクリと反応する。
まるで蛇に睨まれたかのように身体が石のように固まり、息が詰まりそうな重い沈黙が流れる。


しかしその沈黙を破るかのようにまた青年が口を開き、



「彼女ですか?彼女は…」



少し間が空き、



「僕の大切な恋人です」



思わず自分の耳を疑う。
まさか彼の口からそんな単語が出てくるとは思いもよらず、私は目を丸し余裕のある表情を浮かべた青年の顔を見上げた。青年も私を見下ろし「そうですよね?」と口には出さなかったがアイコンタクトで問いかけてくる彼に一瞬戸惑い、でもここは彼の話に合わせようと思わず首を縦に振る。



「彼女は極度な人見知りなんです。知らない人に声をかけられるのが怖いみたいで」



だからあまり刺激しないでいただけますか?と適当な言葉を穏やかな口調で、でもどこかトゲのある言葉を言い放すと男達はお互いの顔を見合わせ申し訳なさそうな表情を浮かべ、ただ一言「失礼しタ」と一礼し呆気なくその場を立ち去って行った。


青年に抱きしめられたまま、恐怖しか感じなかった足音が遠のいていくのを耳で追う。その場を張り詰めていた空気も徐々に薄くなっていき、私は彼にもたれながら安堵の息をついた。



「良かったですね。そこまで疑い深い人達じゃなくて」



男達が視界から完全に消えるのを横目で確認すると、青年は私から離れまた無表情の顔へと戻る。
あまりにも大胆で、でも冷静な判断で難なくこの場をやり過ごした謎の青年。これが彼なのか、それとも男達に見せたあの顔が本当の彼なのかよく分からないが、とりあえず助かったことに心の中で彼に感謝する。あのまま後先考えずに1人で逃げ出していたらまた捕まっていたかもしれない。


でもどうして正体がバレなかったんだろうか。
大男は私の顔を知っていたはずだし、いくら帽子と彼に隠れていたとはいえ、あれだけこっちを凝視していたら私のこの目立つ赤髪や雰囲気に気付いたはず。なのに大男は何の反応を示さなかった。


不思議に思いながら、ふと建物の窓ガラスに映る自分に目を向ける。そこには頭から足のつま先まで全身びしょ濡れの貧相な女が映っていた。雨に濡れて肌に張り付く服や髪が気持ち悪い。早く家に帰ってシャワーでも浴びたい気分だ。



「………え?」



窓ガラスに手をつき顔を近付けながらもう一度窓に映る自分を目を凝らして見る。気のせいだろうか。私の赤髪が石炭みたいな黒髪に変わってるような気がする。



「あぁ、髪ならご心配なく。あと45分と28秒も経てば元の色に戻ります」



隣にいた青年がズボンのポケットから取り出した懐中時計を見ながら呟く。その言葉に私はまた耳を疑う。


元に戻ります? その言葉の意味が分からずもう一度窓を見て確認する。髪が黒く感じるのは周りが暗いせいだと思っていたが、それにしてはあまりにも黒すぎる。



「何度見ても同じですよ。薬の効果はきっかり1時間と決まっていますから」



薬?
青年のほうを見つめながら首を傾げると、彼は手の内からある物を出した。それは紫色の液体が入っていた空の小瓶。その瞬間、壁に押し付けられたあの時の光景がフラッシュバックで蘇る。



「さっきあなたに飲ませたのは僕が作った変身薬です。持続時間は一般的なものより短いんですが、即効性があって確実に元の姿に戻ることができます」
「………」



あぁ、なるほど。それでか。
私の赤髪が周りの暗さで黒いわけではなく、彼が私に無理やり飲ませたあの怪しい薬で黒髪に変えられたせいで大男も赤髪の印象が強い私に気付かなかったというわけか。


淡々と薬について説明する青年を他所に私は彼のすぐ目の前まで進み寄ると、彼の首に巻かれたマフラーを掴み取り思いっきり自分のほうへと引き寄せた。そしてこう言ってやった。



「アンタ一体何なのっ?助けてくれたのことには感謝してるけど、普通初対面の女の子に口移しで薬飲ませるっ?どう考えても飲ませないでしょっ?っていうか飲ませる前にそういうことは一言言いなさいよ変態っっ!!」



とりあえず心の内にある不満を息継ぎなしで全部吐き出した。
話の途中でいきなり首元を掴まれたことに驚く青年。でもすぐにまた無表情に戻り「助けてくれた恩人に向かって変態はひどくないですか?」と首を傾げた。ひどいのはこっちの台詞だ!


青年は反省の色を見せるどころか、苛立ちで赤くなった私の顔を見下げるような視線でクスクスと小さく笑い出した。



「何笑ってんのよ!」
「いえ、たかがキスひとつでそこまでムキになる方だとは思っていませんでしたので…。それに薬のことを言ったところで素直に飲んでくれる保証もなかったでしょう?」



丁重な口ぶりで、でも内心は私の反応をみて楽しんでいるようにも見えまた腹が立つ。
別ににキス自体は初めてじゃないし、仕事の付き合いで今まで何度も知らない男とキスはしてきたし(ほとんどは客からで酒に酔った勢いだけど)、男の扱いだってそこら辺の女より慣れているほうだ。なのに、なのになんだこのモヤモヤは。納得いくようないかないような気持ちだけが残る。


何も言い返せない私を悪戯っぽい笑みを浮かべながら眺める青年をキッと睨みつけ、



「このド変態」
「だから変態じゃありませんって」



ぼそりと呟いた私に間髪入れずに訂正をつける青年。その瞬間思わず彼のマフラーを引っ張っていた手に力がはいる。青年も「その手、そろそろ離してくれませんか?地味に苦しいんですけど」と嫌そうな顔を静かに見せつけてくる。


これだから男は嫌いなんだ。キースもそうだが、相手が女だと男はすぐに調子にのって相手を見下す。まだ猫を被って男に媚びを売る化け猫女のほうがマシだ。



「じゃあ自分が誰なのかぐらい言いなさいよ!」
「?僕ですか?」



青年はどこか不思議そうな表情で首を横に傾げ、また少し会話に間を開けると、



「見てのとおり魔法使いですけど」



と、当然のような口ぶりで言うと、マフラーを掴んでいた私の手を解き一歩後ろへと下がる。一瞬の気の緩みで思わず手を離してしまった私はきょとんとした顔で彼を見つめた。



「魔法…使い…?」
「はい。魔法使いです」



いやいやいや。今の時代にそんなオカルトみたいな人物が存在しているわけがない。本当はマジシャンか芸人で、肩書きをそう名乗っているだけかもしれない。
でも今私が着ているこのローブといい、三角帽子といい、自分が作ったという変身薬といい、なぜか彼を魔法使いだと認識してしまう自分がいた。あぁ、違うと思いたいのに!



「ヒャン!」



私1人で考え込んでいると、青年の足元にいつの間にかあの薄汚い犬がちょこんとと座っていた。
どうやら事が収まるまでどこかの物影に隠れていたらしく、まただらしくなく舌を出し能天気顔を浮かべながら尻尾をパタパタとしていた。



「その犬、アンタの?」
「えぇ、トトと言います。一応僕の使い魔なんですが落ち着きがなくてよく家から脱走するんです」



トトと呼ばれた犬を持ち上げると、犬は小さな舌でペロペロと青年の顔を舐める。彼は使い魔と言うが他人の私から見たらペットのほうが似合っているような気がした。



「それじゃあ行きましょうか」
「え?」



その言葉に首を傾げる。



「行くってどこに?」
「僕の家ですけど」



ここからすぐ近くなんですよと犬を抱き抱えたまま広い道に向かって歩く青年。しかし私がついて来ていないのを察するとまた立ち止まり後ろを振り返る。



「さっきも言ったように薬の効果は1時間です。残りの時間でどこかに隠れないとまた誰かに見つかってしまいますよ。特にあなたのような赤髪はこの世界だと目立ちますから」



その言葉に窓に映った自分を見つめる。
そういえば黒服の男も私のことを魔女だと言っていたっけ。赤髪だけでどうして魔女だと判断するんだと黒に変わった髪先をいじりながら口を前に突き出しブスッと顔を歪めてみる。



「まぁ1人で逃げたいというのならお好きにどうぞ」



肩越しにそう言うと青年はまた広い道の先に漂う暗闇に向かって歩き出す。


彼について行くかどうかは私の自由。
この黒髪と彼から渡されたこの服装なら人混みに紛れて違う隠れ場所を探すこともできるはず。しかし薬の効果は1時間。薬を飲まされてからすでに数十分は経過している。ここがどこだから分からないまま残りの時間で、この町から抜け出すのはあまりにも無謀すぎる。なら上手いこと彼を利用してこの町から抜け出す方法を見つけるのが得策だろう。


こんな男、私の手にかかればイチコロよ。
正直逃げ場が男の家というのが不本意だが仕方ない。ここは目を瞑って彼の言う通りに従っていたほうが身のためだ。



「来るんですか?来ないんですか?」
「ヒャンヒャン!」



その場に突っ立ったままでいると暗闇の向こうから青年の声と犬の鳴き声が聞こえてきた。私を置いて大分先の方まで行ってしまったらしく、いつの間にか目の前から彼等の姿が消えていた。



「来ないならこのまま置いていきますよ」
「ちょっ、待ちなさいよ!」



慌てて地面につきそうなほど無駄に長いローブを引きづりながら暗闇へと向かって走り出す。
こんな変なところ絶対に出て行ってやるんだから!